ヒロシマの少女の折鶴

 

「ヒロシマの少女の折鶴」は、1979年に発表されたモンゴルの唱歌です。この歌の主人公は、広島の原爆の放射能で白血病となり、12歳で亡くなった佐々木禎子さんです。

広島、原爆ドーム

佐々木禎子さんは、原爆に遭った時は2歳でした。禎子さんの家は、爆心地から離れた所にあったので、外傷は負いませんでしたが、放射能を浴びてしまいました。約10年後、禎子さんは発病し、病院に行くと、「原爆の放射能による白血病」と診断されました。入院した禎子さんに、ある日、名古屋の学生から、綺麗な折鶴が贈られてきました。禎子さんは、「鶴を1,000羽折れば、病気が治る」と信じ、粉薬やキャンディーの包み紙等で鶴を折り始め、50羽できるごとに糸に通して、天井に吊るしていきました。しかし、1,000羽折っても、禎子さんの病気は良くなりませんでした。それでも、禎子さんは言い伝えを信じ、「大好きな学校に帰れますように」「もう一度、思いきり走れますように」「お父さんやお母さんと、また一緒に暮らせますように」など、1羽1羽に願いを託し、ひたすら折り続けました。それなのに、禎子さんの願いは叶わず、1955年10月25日、12歳という若さでこの世を去ってしまいました。当時のクラスメイトは、「禎子さんのために」「禎子さんと同じ苦しみを受けた、世界中の子供たちのために」「このような戦争を、二度と繰り返さないために」と、「原爆の子の像」を作ることを企てました。そして、禎子さんと折鶴の話は、口から口へと日本中に、いや、世界中に伝えられ、約2年半後、彼らの願いの込められた「原爆の子の像」が完成し、広島の平和記念公園に建てられました。現在も、世界中の人々から、折鶴が贈られています。平和記念資料館には、禎子さんが折った折鶴も展示されています。

原爆の子の像

ぼくは、モンゴルの歌手・オユンナを通じて、「ヒロシマの少女の折鶴」という歌を知りました。ぼくは、オユンナが歌う「ヒロシマの少女の折鶴」を聴き、気持ちが伝わってきたので、2000年の9月に、広島の平和記念公園に立ち寄りました。原爆ドームを見ていると、当時の光景が目に浮かんできて、戦争の恐ろしさと人の命の尊さを、改めて実感しました。そして、オユンナが歌う「ヒロシマの少女の折鶴」が何処からともなく聞こえてきて、禎子さんが小さな手で折鶴を折り続けている姿も浮かんできて、とてもかわいそうに思いました。立ち去る前に、慰霊碑の前に立ち、手を合わせて黙祷し、「あなたがたの死を、決して無駄にはしません。これからも、我々の手で、明るく平和な世の中を作っていきます。安らかに眠ってください」と言い残し、その場を立ち去りました。そして、2001年の4月にも、平和記念公園へ行きました。原爆で亡くなった人たちのために作られた、たくさんの慰霊碑や像を見てまわりました。そして、平和記念資料館にも行き、“原爆の恐ろしさ”を見てきました。特に印象に残ったのは、8時15分で止まった時計と、黒焦げになった弁当と、禎子さんが粉薬やキャンディーの包み紙等で折った折鶴でした。記念館に居る間、オユンナが歌う「ヒロシマの少女の折鶴」が耳から離れませんでした。その日、資料館で、本を5冊買いました。予め用意していた、自分の手で折った100羽の折鶴を、原爆の子の像のところと、慰霊碑のところに供えました。それ以降も、広島へ出かけた時は、平和記念公園と平和記念資料館に必ず立ち寄っています。

慰霊碑

ぼくの父方の祖母も、広島の原爆の放射能による白血病で、40代で亡くなっています。母方の祖父は、戦死しています。我々は、戦争の無い世の中に生まれたことに、感謝しなくてはなりません。そして、今後も、戦争の無い平和な世の中が続いていくことを願いたいです。佐々木禎子さんをはじめ、原爆で亡くなった方々の冥福を祈り続けます。


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