横綱土俵入りについて

 

横綱の土俵入りには、雲龍型と不知火型の2種類があるということは、みなさん、ご存じかと思います。

まず、ふたつの型の違いを簡単に説明します。

 

雲龍型 綱の結び目の所に、輪っかを1個作る。
1回目の四股を踏んだあと、右手を横に広げ、左手は左のわき腹(より少し上あたり)に当ててせり上がる。
不知火型 綱の結び目の所に、輪っかを2個作る。
1回目の四股を踏んだあと、両手を横に広げてせり上がる。

 

現在は上記のように定められていますが、実は、横綱・雲龍と横綱・不知火が行った型は、現在で言う型とは逆だったという説があります。

第22代横綱・太刀山峰右衞門は、現在で言う不知火型の土俵入りをしていたと言われていますが、彼が横綱に昇進した時、当時の新聞や雑誌等では、「8代横綱・不知火諾右衞門の型」「11代横綱・不知火光右衞門の型」「10代横綱・雲龍久吉の型」と、新聞や雑誌によって違ったことが報道されました。その中で最も多く報道されたのは、「10代横綱・雲龍久吉の型」でした。最初、「不知火の型」と報道し、そのあと「雲龍の型」と訂正した物もありました。太刀山本人は、横綱昇進時に、「型は、常陸関(常陸山)や梅関(梅ヶ谷)とは違って、私は横綱・雲龍、即ち、後の追手風になった人の型です」と語っていたそうです。そうだとすれば、現在、不知火型と言われている型が、雲龍の型ということになります。

そして、第24代横綱・鳳谷五郎は、現在で言う雲龍型の土俵入りをしていたと言われていますが、彼が横綱に昇進した時、当時の相撲雑誌には、「梅ヶ谷同様、不知火の型に則って云々」と記されており、それが正しければ、現在、雲龍型と言われている型が、不知火の型ということになります。

しかし、明治中期までの横綱の土俵入りは、型も様々だったとも言われていますので、むしろ、現在で言う雲龍型を「常陸山の型」、現在で言う不知火型を「太刀山の型」と言う方が正しい呼び方と言えるでしょう。

雲龍型の土俵入りに対し、不知火型の土俵入りを行った横綱は極めて少人数です。明治後期以降、不知火型の土俵入りを行った横綱は、太刀山、羽黒山、吉葉山、玉の海、琴櫻、隆の里、双羽黒、旭富士、若乃花(勝)、白鵬、日馬富士、照ノ富士、以上12人だけです。土俵入りの選択方法には特に規則はありませんが、やはり、部屋や一門の風習に従っているようです。

横綱土俵入りの太刀持ち、露払いは、原則として同じ部屋あるいは同じ一門の関脇以下の幕内力士が務めることになっていますが、稀に、一門は違っても、その横綱の友人であるということで務めることもありますし、大関が務めた例もあります。尚、太刀持ちは、露払いを務める力士より番付上位の力士が務め、太刀を持つ手は、絶対に(たとえ左利きでも)右手でなければいけないという規則があります。


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