八木 裕

やぎ・ひろし

 

八木裕(1991年12月15日、撮影)

 

生年月日 1965年(昭和40年)6月8日
血液型 O型
出身地 岡山県玉野市
出身校 岡山東商業高
プロ入り前の勤務先 三菱自動車水島
在籍期間 1987年〜2004年(選手)
2009年〜2015年(コーチ)
ポジション 一塁、三塁、遊撃、左翼、中堅、右翼
投打 右投右打
背番号 14(1987年)  3(1988年〜2004年)  76(2009年〜2015年)
現役通算成績 打率:2割4分7厘  安打:816本  本塁打:126本

 

八木選手は、プロ入り前、三菱自動車水島に勤務していました。ぼくは、当時、その三菱自動車水島のすぐ近くにある会社(三菱自動車の下請)に勤務していました。三菱自動車の野球部の選手が阪神に入団し、ぼくも大喜びし、八木選手に期待しました。プロ入り後、オープン戦では初打席でホームランを打ち、公式戦でも2打席目で江川投手(巨人)からホームランを打ちました。入団当時は三塁手でしたが、チームの事情もあり、遊撃や外野も経験しましたが、やがて三塁でレギュラーを獲り、その後は外野手でもレギュラーを獲り、クリーンアップを打ち、期待通りの活躍をしてくれました。しかし、30歳を過ぎると、怪我で戦列を離れることもあり、肩や脚も衰え、レギュラーから外れることも多く、スタメン出場した場合も一塁を守ることが多くなりました。でも、それが、八木選手にとって第2の人生のスタートでした。その頃から代打で起用されることが多くなり、大事な場面でたびたび打点を挙げ、“代打の神様”と呼ばれるようになりました。2003年にも代打で大活躍し、時には4番でスタメン出場し、優勝に貢献しました。

引退が決まった時は、とても寂しかったです。引退試合の時、「憧れの甲子園球場でバッターボックスに入ることは、もうありません」と涙ながらに挨拶した時は、ジーンと来ました。選手としてバッターボックスに入ることはありませんが、いつかきっと、指導者として阪神に戻ってくると信じていました。2008年オフ、二軍の打撃コーチとして阪神に戻ってきましたが、2015年オフに退団しました。でも、まだまだやれる年齢なので、もう一度、指導者として阪神に戻ってくることを祈ります。


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